2007~2010 東京

17. 家族間の軋轢

2009326日(木)
友ちゃん(母の妹)との電話で、僕が上海に行って東京を離れていた週末(土曜日)の話を聞いた。

日は父も外出をする予定があり、友ちゃんが三軒茶屋の実家に行ってくれたのだが、ドアの前でベルを鳴らしても誰も出てこなかった。友ちゃんがドアを開けて家の中に入った所、電気が消えたリビングで母が椅子に座って一人で泣いていたというのだ。母は泣きながら「辛くて気が狂いそうだ」と漏らしていたらしい。

  

49日(木)

母の診断に付き添った父は、主治医と二人きりになった時に、母の癌が既に骨盤まで広がっているという話を聞いた。

 

427日(月)

前日、高熱を出しお腹が痛むと泣いていた母が心配で、朝の出勤途中に母へ電話をすると、熱が下がり、夜中に目が覚めてテレビショッピングでブラウスを数枚買ったと元気に話してくれた。僕は嬉しくて「何でも買ってあげるから、好きなものを買いな!」と言った。昼には父からの連絡で母が渋谷のパチンコへ行ったことを知った。母が前回パチンコに行ったのが27日の誕生日、いろいろなことが起こった二ヶ月半だった。この日は儲けて渋谷のフードショーでおかず(大トロやうなぎ)を買ってきたというので、僕も元気な母の姿を見たくて、会社が終わり次第実家へ戻った。

  
52日(土)

父と目標に設定していたゴールデンウィークは、母の体調も安定していたので、予定通り、相模原の友ちゃんの家に遊びに行った。

年初から抗がん剤治療をやめたので、母は髪の毛も生えてきて、家の中ではかつらも帽子もかぶらないことが多くなった。

 
5
8日(金)

夜、母に電話をすると、母は元気がなかった。父によると、膿が沢山でたようだった。

 
5
9日(土)

夕方、友人との飲み会の前に新宿から母に電話をしたところ、相変わらず元気がなく、母は僕にこう言った。
「午前中ね、お父さんがおむつを買ってきたの」。
膿が出てくる箇所をカバーできるのではと父はおむつを買って来たらしい。僕は母の思いを十分わかっていたが、何事もなかったように振るまい「その方が楽であれば、それでいいじゃん!」と明るく答えた。母は自分自身がそのような状況までになってしまったことに対して、焦り、情けなさ、もどかしさ、悔しさ、不安、いろいろな思いがあったのだと思う。電話越しで「気を強く持たないと。気を強く持たないと。。。
」とまるで呪文を唱えるかのように何度も自分に言い聞かせていた。僕はこの先どういう結末が待ちうけているのか考えるだけでぞっとした。
 
5
10日(日)母の日

僕はこの日、カーネーションを買って実家に戻った。母は相変わらず、僕たちにひじき、堅魚のたたき、ブロッコリーの料理等いろいろなおかずを作ってくれたが、料理をしている時も膿が出ていたようで、食欲もなく、料理をした後は、すぐにベッドで横になっていた。

僕は一人暮らしの家に戻る前、母が夜中お腹を空かしてしまうのではと心配になり、有り合わせのたらこを使って小さなおにぎりを作った。ちょうど小腹がすいていた母は、僕が作ったおにぎりを「おいしい、おいしい」と言って食べてくれた。そして母は「こうやって毎日何があったかを書いているのよ」と言って、僕が作ってあげたおにぎりのことを手帳に書きこんでいた。

 

527()
膿の問題を解決するために、その数日前から人工肛門用の袋を装着するように試みていたが、膿が出るたびに胃酸などで袋がはがれてしまい、膿が外に漏れるようになってしまった。そして、その個所は爛れはじめ、母が我慢をしなくてはいけない痛みがもう一つ増えてしまった。
この日の昼、外出をする父からメールが入った。「何かを口にするたびに膿がでてくるようで、本人も怖くて何もに入れられないらしい。午後は千恵子さん(六人姉妹の次女)が来てくれるけど、仕事が終わったら早く帰ってあげて欲しい」と。

僕は定時で仕事を終わらせ、実家に戻った。日が落ち、電気の消えた薄暗くなった部屋で、ベッドで寝ている母はバルコニーの方を向き、僕が「ただいま」と声をかけると、僕の方を振り返ることなく、か細い声で「もうダメかもしれない。。。」と呟いた。僕はすぐに母のベッドに向かい、ベッドの横で跪き、涙を流す母の手を取って「そんなこと言っちゃだめだよ」と声を震わせながら言った。

「お母さんは太郎を生んで幸せだったよ。沢山いい思い出を作ってくれた」。
母の前では涙を見せずいつも笑顔で接していた僕も、この時だけは我慢ができなかった。そして、二人で号泣してしまった。

20時
頃、父が帰宅。三人で当時毎週欠かさずに楽しみに見ていた武田鉄矢主演のTBSドラマ「夫婦道」を見た。

その後、また多くの膿が出たようで母はトイレから泣きながら出てきた。母はベッドに座り、苛立ちながら「なんでこんなつらい思いをしなければいけないの。こんな辛いなら死んだ方がましよ」と僕らに訴えた。死んだ方がましだと言いながらも、友ちゃんが探し出し、自ら負担すると言って買ってくれているサプリメントを、涙をぼろぼろ流しながら、一錠一錠、必死に飲んでいた。
死んでしまって早く楽になりたいという思いと、まだまだ家族と一緒に生きていたいという思い、そんな相反する思いを目の当たりにした。母は毎日葛藤していたのだろう。

 
この時期、僕と父、そして、母の兄姉妹の間で少しずつ軋轢が生じ始めていた。
 

父は60歳の時に共同経営していた設計会社をもう一人の経営者に譲り、その後は後輩が経営する同業の会社で顧問をしていた。毎日出勤をするというのではなく、週に数回、数時間程度外出するだけでよい立場であった。母の余命宣告時から、仕事を辞めて母の傍にいてあげるという選択肢もあったのだが、父はそれを選択しなかった。朝から晩まで家を空けるわけではなかったし、余命半年と言っても半年しか生きることができないとは限らない。それに家庭の事情で退職をして、その後母が亡くなった後に仕事復帰をさせてもらいたいと自分勝手なことも言えない。僕は、父には息を抜く場所が必要だと思っていたので、父の選択を支持した。父が家を空けなくてはいけない時は、僕が行ったり、母の姉妹や近所の仲良い友達もいたので、何とかなると思っていたからだ。
 

それでも、母は寂しかったのかもしれない。家で独りぼっちの時、想像を絶する孤独を感じていたのかもしれない。そして、一番傍にいて欲しいと思っている父や僕に不満があったのかもしれない。おそらく、姉妹にはそんな思いを愚痴としてこぼしていたのだろう。この頃友ちゃんからよくメールなり電話で「お父さんに仕事を辞めるように説得してほしい」とお願いされるようになった。友ちゃんは僕に「お願いします」と言っていた。僕は、友ちゃんの言っていることもよくわかるし、父の立場もよくわかっていたので、とても苦しかった。父には、プレッシャーをかけないように気を遣って伝えた。
 
ある夜、千恵子おばちゃんから電話があり、父は「友ちゃんが、私が仕事を辞めるべきだと言っているようですけど、非常に不愉快に思っています」と言い放ったらしい。その話は、後日友ちゃんの耳にも入り、友ちゃんは僕にメールで苦しい思いを伝えた。年子で小さな頃からいつも一緒だった愛する姉を助けたいと思う気持ち、でも、既にそれぞれには家族があり、家族の考えを尊重しなくてはいけないという思い、「私が余計なことを言ってしまった。私が悪者になっているみたいだから、もう何も言わない。私も毎日苦しいよ」と。

父も僕も母の兄姉妹のことが大好きで、これまでの30年間皆仲が良かった。それでも、母の病気をきっかけにそんな関係に少しずつ亀裂が入ろうとしていた。


530()

父は朝方ぎっくり腰になってしまいお見舞いに行けなくなってしまった。そして、僕が夕方病院まで顔を出しに行った。父は当時64歳、母が入院中は毎日自転車で病院まで着替えを運んだり、おかずを持っていったりしていたので、肉体的な疲れや精神的なストレスが溜まっていたのだと思う。
 

5
31()
この日も父の腰はよくならず、動くことができなかったので、午前中は病院には行かず自宅で安静にしていた。僕も昼間は予定があったので、夕方病院に行くことにしていた。僕が病院に着いてまもなく、父も松葉杖をついてやっとのことで病院へ到着した。母は午前中から膿が漏れ、パジャマが濡れてしまい、僕らの到着をずっと待っており、機嫌を悪くしていた。この頃から、優しかった母も僕らにあたるようになってきた。
 

その後も一進一退の状況が続いた。
膿が出ない時は穏やかなのだが、膿が出ると精神的にも不安になり、イライラするようだった。

6月11日(木) 19:41
入院中の母からのメール
「今日は隆子さんが、うにといくらの寿司を持って来てくれました。膿も漏れなかったし、最高にいい日でした」
母には沢山友達がいたが、僕や父から見ても、隆子さん(僕の小学時代の同級生・潤のお母さん)が母にとっては一番気の置けない友達だったのだと思う。病気をすると壁を作り、家族以外の友達にはあまり弱い面を見せたがらないと思うが、母は隆子さんだけには家族と同じように心を開いていた印象がある。


7月4日(土)
父の65歳の誕生日。母の体調も良かったので、急きょ外食をすることになった。18時過ぎ、母が大好きな三軒茶屋駅前の焼肉屋「壱語屋」に行ったものの、席が空いていなかったので、三宿の焼肉屋までゆっくり歩いた。かなり歩いたのだが、そこの店は座敷しか空いてなく、母は椅子のあるテーブルを希望したので、再び三軒茶屋に戻った。この日は、前から気になっていた和風ダイニングのお店に入った。
初夏の生ぬるい風が吹き、過ごしやすい夜だった。食後は、「風が気持ちよいね〜」と言いながら帰宅したのを覚えている。
 
こうして僕と父の目標であった父の65歳の誕生日を無事に三人で迎えることができた。
次なる目標は、8月29日の相模原花火大会、友ちゃんの家から皆で花火を見ることであった。