2007~2010 東京

12. 青天の霹靂

2007年8月26日、僕は約5年半に及ぶカナダと台湾での海外生活を終え、日本に帰国した。
 
実家は世田谷の三軒茶屋という非常に便利なところにあったが、海外で一人の生活に慣れてしまった僕は、狭い実家で両親と住む気にはなれず、一人暮らしをすることにした。 新しい会社の勤務開始日は9月1日だったので、それまでの5日間で駒込に気に入った新築ワンルームマンションを見つけ、9月の第一週目の週末に引っ越しをすることにした。
 
父は僕にもっと近所に住んで欲しかったようで、一人暮らしの場所を「駒込」に決めたことに対して、非常に不満そうだった。少しの間、口もきいてくれなかったが、なんだかんだ言いながらも、結局は車を出してくれて、家族三人で横浜のIKEAに行った。好きな家具やら雑貨を購入し、僕は東京での新しい生活に胸が膨らんだ。


 
引っ越しも落ち着き、僕の東京でのサラリーマン生活が始まった。朝起きて、スーツを着て、満員電車に揺られ、虎の門の事務所に行く。そこまで忙しい部署ではなかったので、18時前後には仕事が終わり、その後は僕が海外にいた数年間会うことができなかった昔の友達と新橋
や銀座で待ち合わせをして、ショッピングをしたり、夕食をしたりした。台北にいた頃は「東京のサラリーマン生活って大変だろうな・・・」と思っていたが、こんな生活も悪くないなと思った。
 
この
頃、あるきっかけでよし君という友達と知り合った。彼は広告代理店勤務で、たまたま彼の上司が僕の仲の良い女性友達の父親だったということなどもあり、意気投合した。彼の交友関係は非常に広く、その後彼を通していろいろな業種の同年代の素晴らしい仲間と知り合うことができた。学生時代の友人はだいたい結婚してしまっており、年に数回程しか会わなくなっていたが、よし君の仲間は男女問わず独身が多く、彼らと頻繁に遊ぶようになった。
 
10月中旬、台湾
から友人・Jackが東京に遊びに来た。折角なので、母の手料理を食べさせてあげたいと思い、実家に連れて行った。僕が台湾に住み始めた頃から、父は中国語の勉強を始め、母は英会話教室に通っていた。とはいっても、まったく初級レベルなので、基本は僕が通訳をするわけだが、父も母も一生懸命Jackに英語や中国語で話しかけていたことを覚えいてる。Jackは副業でコマーシャル俳優をやっているイケメンで、また、対応もとてもフレンドリーなので、父も母もJackを気に入っていた。とても楽しいひと時で、僕は「今後台湾から遊びに来る友達がいれば、必ず実家に連れてこよう!」とそんな風に思った。

  
11月中旬、8月に受験をした米国公認会計士の最後の一科目の合格発表があり、念願の最終合格を果たした。これで僕も「会計士」となったわけだ。9月から働き始めた税理士法人の仕事に対しては、あまり興味を持つことができず、ここで経験を積むことはできないと確信をした僕は、密かに、会計士試験に合格しないと採用をしてもらえなかった監査法人への転職活動を開始した。一般的に、米国と日本を比べると、会計知識は日本の公認会計士のレベルの方が断然高く、以前は、米国公認会計士が世界四大会計事務所から内定をもらうことはごく稀であったが、当時は2000年初めにアメリカでおこったエンロン事件から派生した内部統制監査法の日本版(J-SOX法)の施行前でどこの大手監査法人も会計士の採用を大幅に増やしていた。この時期に転職活動をして、日本最大の監査法人から内定をもらえたことは非常にラッキーだったと思う。
勤務開始日は2月1日と決まったので、入社からわずか4ヵ月半後の12月中旬に税理士法人に辞表を提出した。


(自宅近所にある駒込・六義園に行き、数年ぶりの紅葉を見た。)

2007年後半は自分が東京でのサラリーマン生活に慣れるための準備期間で、2008年が本格的な始まりになると感じながら、2007年は幕を閉じた。
 
2008年1月2日、「1月2日」は僕が小さい頃から一年の中で最も楽しみにしていた一日だ。午前中は、父の実家がある日本橋・箱崎町へ行き、午後から、母の実家がある上板橋に行く日。父の両親が他界してからは、お正月に日本橋で集まることはなくなったが、母の実家の上板橋では毎年恒例のお正月の集まりが続いた。母は3男6女の大兄弟、近所でも有名な美人姉妹の中で母は下から二番目で、僕にはたくさんのおじさんやおばさん、いとこがいた。毎年たくさんのお年玉をもらえることも嬉しいのだが、一人っ子であった僕には、まるで橋田寿賀子のドラマ「渡る世間は鬼ばかり」のようなあの賑やかな家族の集まりがそれ以上に楽しかったのだと思う。この日も午後から集まり、大盛り上がりで19時頃に解散。皆で上板橋の駅まで歩き、両親は東上線で、駒込に住んでいる僕はバスで帰ることにした。バスが出発するまで僕を外で見守ってくれている両親の姿を見て、「いつまでこんな風に両親が健康でいられるのだろう?」とふと思ったことを覚えている。毎年年初に初詣に行く時、当然のように家族の健康を祈るわけだが、この年はなぜか特にそんな思いを強く持った。
 
2月1日の監査法人での勤務開始日から1週間後の2月7日、この日は母の60歳の誕生日であった。
午後、母から携帯メッセージが届き、「お父さんから60本のバラが届きました!」と嬉しそうに写真を送ってきた。

 
その週末は少し遅れた母の誕生日を祝うため、家族三人で渋谷へフグ料理を食べに行った。僕はこの時初めて知ったのだが、母は体調があまり良くないため、最近検査を受けたとのことだった。検査結果が出るのを数日後に控えて、母は、少しばかり笑いながら「何か変な予感がするの。これが最後の誕生日かな?」と言った。母はどこから見ても健康そのものであったし、検査をして何もなかったということはよくある話なので、僕は全く気にも留めなかった。
 
2月中旬
父から、携帯に「(検査は)仕切り直しだそうです。電話してくれる」とのメッセージが入った。母の再検査が決まったことを知り、何か嫌な予感がした。
 
2月末
母が自ら再検査の結果を病院に聞きに行き、卵巣癌であったことが判明した。医者には「癌はかなりの大きさまでになってしまっている」とストレートに言われたらしく、母はこの日から、食欲をなくし、思いつめるようになった。同じマンションに住んでいた同年代の知り合いが末期の卵巣癌で発見後まもなく亡くなったということもあり、母も自ら、余命が半年程度ではないかと判断したようだった。
 
その晩、母は15歳離れた一番上の独身の兄・賢介叔父さんに電話をし、「私が兄ちゃんを看取ってあげる予定だったのに、私が先に行くわ。。。」と癌の報告をしていたらしい。母は兄姉妹の中でも人一倍家族思いで、以前母の一番上の姉・芳子おばちゃんがパーキンソン病で約7年間患った時も、母は頻繁に東久留米まで通い、おばさんの面倒をみていた。筋肉が衰えるおばさんを抱え、銀座の駅の階段をあがったという話も聞いたことがあった。また、当時95歳の母親の老人ホームにもよく通っていた。母は優しく、穏やかで、人当たりもよく、兄姉妹の中でも最も慕われていたので、母が癌であることを知った兄姉妹には大きな衝撃が走った。
 
その週末、数名の兄姉妹が三軒茶屋の実家に集まった。10年程前から癌と闘っている母の義理の姉も来てくれて、いろいろなアドバイスをくれた。母は、半年前から腹部の違和感を感じ、以前子宮摘出手術をした広尾にある日赤医療センターに行ったものの、「この年齢になればよくあることだから、心配する必要はないですよ」と言われたとのことで、半年間放置していたらしい。その後、やはり何かおかしいと感じ、近所にある駒沢の東京国立医療センターに検査に行った所、癌は既に相当の大きさになっていたのだ。皆、「あんな大病院がなんでそんな診断ミスをするんだ!」と怒りをあらわにしていた。母は皆の前で顔を覆って泣きながら、「もっといろいろな病院に行って検査をすればよかったの・・・私の不注意だった。。。これからみんなに迷惑をかけるわ。ごめんなさい」と言っていた。僕は癌は治療さえすれば治ると甘く考えていたので、これから何が起こるのか、あまりピンと来ていなかったが、自らの父親を癌で亡くしている母には、癌の怖さは痛いほどよくわかっていたのだと思う。母は泣きながら、震えていた。
 
  
癌は僕が想像をしていた以上に残酷な病気であった。
これから始まる1年半に渡る闘病生活、僕はいろいろなことを考え、そして学んだ。人は弱くなった時に本性を表す。この間に見た母の生き様、きっと母は最期に僕と父に何かを教えてくれようとしていたのかもしれない。つらい1年半ではあったが、
僕がこの両親の子供としてこの世に生まれてきたことが本当に幸せであったと再確認をした1年半でもあった。
 
何よりよかったこと、それは半年前に僕が自らの意志で東京に戻ってきていたこと、そして、母の闘病の際、母の傍にいてあげられたこと。もし僕の帰国が母の病気が原因で決まったことであれば、人の迷惑になることを嫌がる母は確実に僕に申し訳ないと思ったはずだ。僕の一年前の帰国の決断、それは何かの虫の知らせだったのかもしれない。