2003~2007 台北

11. 虫の知らせ

2006年秋、両親が台北に遊びに来た。
上司や同僚から僕の両親に会ってみたいと言われたので、会社に来てもらい、みんなに紹介をした。その夜は、日本語の話せる仲の良い同僚を集め、みんなで北京ダックを食べに行った。父はマイペースにいつものように息子自慢を始め、それを母が「うちのお父さん、変わっているでしょ!?」なんてフォローをして、場が和む。そんないつもの楽しい宴だった。
(両親は台湾が気に入り、親戚や友達を連れて、何度も台北に遊びにきてくれた。)

米国公認会計士の準備は着実に進み、翌年(2007年)の旧正月を利用し、二度目の試験を受けにアメリカに行くことを決めた。折角なので、4年ぶりのトロントに昔の友達に会いに行き、時差調整をした上で、トロントから最も近い試験会場であるアメリカのバッファローに長距離バスで行くことにした。バッファローは一度も行ったことのない都市であったが、名前は聞いたことがあったので、特に何の心配もなかった。出発1週間前にはある食事会で知り合った台湾人が以前バッファローに留学していたということで、いろいろな情報を教えてくれた。バッファローは自分が思っていた以上に田舎で、交通の便が悪いらしい。そして、その友人は、バッファローに住んでいる台湾人の友人を紹介してくれ、僕からも連絡を入れてみた。彼女からもバッファローは不便だからということで、バッファロー入りする当日はトロントからのバスが到着するバスターミナルまで迎えにきてくれるという事になった。
 
トロントで数日間時差調整をした後、試験前日の夕方、バスでバッファローに向かった。2月の北米は厳寒だ。この日も大雪が降っていた。バスからの景色は少しずつ暗くなって行き、大雪は降り続けている。バッファローに到着したのは22:00頃。予定通り、バスターミナルで彼女と彼女の友達が僕の到着を待ってくれていた。バスターミナルは自分が想像していたニューヨークのようなバスターミナルとはえらく異なり、さびれたど田舎のバスターミナルであった。そして、タクシーが待機している訳でもなく、ファストフードの店がある訳でもなく、僕は彼女達がいなかったらどうなっていたのだろうと恐ろしくなった。試験前の動揺はストレスになり、試験に悪影響を及ぼす。その後、お腹を空いている僕を心配して、彼女達が、その時間でも空いているチキンウィングのお店に連れて行ってくれて、そして、ご馳走までしてくれた。次の朝は、ホテルまで車で迎えにきてくれ、試験会場まで送ってくれた。
僕は彼女達のお陰で、残された2科目中の1科目を合格し、合格まで残り1科目となった。

(トロントでは、トロント時代の友人達と再会をした。
右上の写真は、バッファローでお世話をしてくれた台湾人の友人。
僕の人生は、とことん台湾人にお世話になっている気がする。)

春になり、会社の組織変更があったのをきっかけとして、僕は会社を辞める決意をした。尊敬でき、自分に良くしてくれる上司に、仲良しの同僚、最高の仕事環境ではあったが、自分が目指しているゴールはここではなかった。
4月末に退職をした後、すぐに東京に戻るというのが通常の展開なのだろうが、仕事がない状態で東京に住むのはストレスが溜まる。それに対して、台北での生活は、仕事がなかろうが、大して人の目も気にならないし、物価が低いので経済的にもありがたい。この他、台湾では、一年間の台湾滞在日数が183日未満の場合、非居住者として扱われ、個人所得税の税率が高くなる。というわけで、滞在日数が183日以上になる夏まで台北に残り、米国公認会計士の最後の1科目の試験勉強をしながら、勤務地を東京・台北・上海・北京・香港の5都市に絞り、Big4(世界四大会計事務所)を第一希望とした就職活動をすることにした。

5月中旬には、東京経由でニューヨークまで試験を受けに行った。
僕の退職を耳にした日本の親会社の取締役から「是非会いたい」との連絡をいただいていたので、東京で会食をした。「最近は中華圏の投資家が増えている。日本本社のIR(投資者広報部門)でも中国語が話せて、会計を理解している人物が必要なので、うちに来てもらえないか」ととてもありがたいお話だったが、自分が今目指している所は、様々な業種を見ることができる会計事務所なのでということでお断りをした。

(東京に戻った時はちょうど母の日であったので、家族三人で渋谷の美登利寿司へ行った。
 旅行で来日していた台湾人の友人と店で遭遇し、その友人にこの右上の写真を撮ってもらった。思い出の写真だ。
 ニューヨークでは、小中学時代に同じマンションで育った女友達が働いており、彼女とも数年ぶりの再会を果たした。)
 
ニューヨークで受験した科目は、ぎりぎりで落ちてしまったが、7月始めに、某Big4の税理士法人の中国ビジネスグループから内定をもらい、その内定を受けることにした。ある方から、会計の実務経験がない僕のような人間が海外(台北や上海)の会計事務所で働く場合、たいてい営業要員になってしまい、実務経験ができないということを聞いた。実務を経験したいのであれば、言葉の壁のない日本に戻るべきだというアドバイスがあったので、東京で中国語を活かしながら、実務経験を積む道を選んだ。この時、東京で3年間経験を積んで、また台北に戻ってこようと決めていた。
 
9月1日が勤務開始日であったので、台湾の個人所得税の問題や、日取りの問題等を考慮して、帰国日を8月26日に決めた。帰国までの1か月半はこれまでお世話になった人に挨拶へ行ったり、僕が日本に戻る前に台湾に遊び来たいという友達がいたり、少しずつ荷物をまとめて日本へ送り始めたりで多忙な日々が続いた。
 
(とにかく沢山の人と会って、そして、沢山飲んで食べた。)


(8月中旬には、再び試験のためにハワイに行った。
 貯金を貯めてたとはいえ、無職の状態で頻繁に海外に受験しに行っているので、さすがに貯金も底に近づいてきていた。ただ、僕の背後には両親という大蔵省がついていたので、あまり不安はなかった。)
 
ハワイから台北に戻って来ると、日本への本帰国日はもう間近になっていた。台北での生活もあと約10日間。ちょうどその時期に台湾人の友人からお薦めだよと借りていた日本ドラマ「派遣の品格」のDVDを見ながら、「あ〜、自分もこうやって日本で社会人としてやっていくのか・・・!?」等と感じていた。ただ、自分でも驚いたことに、あんなに離れたくなかった台北だったが、なぜかこの時、東京に戻ることに対しては、3割の不安と7割の期待、期待が不安を上回っていた。おそらく、台湾では今できることを全てやり遂げたような気がしたからだろう。
台湾での生活は僕にとって天国であったが、僕は自分の感覚が少しずつ台湾人になってきている気がしていた。日本人として、一度日本に戻って、厳しい日本の社会でもまれないと、甘い人間になってしまうという気がしていた。「縁があれば必ず台湾に戻って来ることができる!」、そういう思いがあったので、寂しさもあまり感じていなかったのかもしれない。
 
帰国前日も様々な用事があったが、僕はどこかのタイミングで行天宮にお参りに行くことだけは決めていた。よく行く飲み屋で何人かの友達が集まってくれるという話だったので、別の友達と食事を終え、飲み屋に行く前に、行天宮に向かった。閉館時間(23時頃)を過ぎてしまっていたので、中に入ることはできなかったが、僕は外から手を合わせた。僕が台湾に滞在した4年半の間、いくつもの素晴らしい出会いがあり、そして、最高の思い出を作らせてもらえたことの感謝を伝えた。
そして、その後、行きつけの飲み屋へ向かった。
次の日の飛行機は早朝の便だったので、あまり遅くまではいれなかった。仲良しのバーテンダーやそこの飲み屋でよく一緒に飲んだ友達らといろいろな思い出話をしながら時間は過ぎて行った。日が替わり帰国当日となり、帰国まで残り数時間になったこの時、僕は「あ〜、このまま時がとまってくれればいいのに・・・」とそんな風に思ったことを未だに覚えている。
 
(お店を出る前にみんなで撮った写真)
 
2007年8月26日(帰国当日)
久しぶりの東京での生活に対する少しの不安とより多くの期待を膨らませ、僕は見送りに来てくれた友人に別れを告げ、飛行機に乗った。

 
人生とは不思議なものだ。。。
どんな人の人生にも必ず浮き沈みがある。
全てが順風満帆でも、いずれ落ちだす時が来る。
全てうまく行かなくても、いずれまた順調にいきだす時が来る。
 
僕の人生、この時点では何の不満もなく順風満帆そのものであった。
だがこの時、僕は再び訪れる人生の停滞期に向かい始めていたのだろう。
この帰国からちょうど半年後、僕の帰国の決断がある虫の知らせであったことが判明する。