2004年夏、日系の人材紹介会社から台湾人総経理の特別助理(社長特別秘書)としての内定をもらったものの、経験をしたことがない業務が沢山あったことや、当時の年齢にしては割と高い給与だったこともあり、総経理の期待に背くわけにはいかないというプレッシャーがあった。入社1か月後には東京での国際会議が予定されており、それまでに学ばなくてはいけないことが沢山あり、平日は仕事を家に持ち帰り夜中まで仕事をし、土日も会社に行き、社長からいろいろなことを学んだ。東京出張も無事に終え、翌年(2005年)2月には上海出張が入った。初めて顔を合わせる上海子会社の新社長と二人で雑談をしている際、上海の社長から「アジア統括の社長特別秘書であれば、当然、財務諸表もしっかり見れるのだろうね?」と言われた。僕は会計の勉強などをしたこともなく、なんとなく財務諸表の意味を理解できるという程度であったが、この時、思わず「はい!」と答えてしまった。台北に戻った後、上海の社長の一言が頭から離れなかった。僕の中では、①自分はサラリーマンタイプではないので、いずれ独立して自分で会社を作るだろう、②会社を経営するのであれば、財務諸表は読めないとまずい、③司法試験をあきらめ、弁護士の資格が取れなかったので、何か他の資格でもあった方が将来のためにも良い、④日本の公認会計士試験は難しそうだが、米国の公認会計士試験であれば、科目合格制(1科目ずつ受験をし、期限内に4科目合格すれば資格をとれる)なので、比較的取りやすいかもしれない。そんなことを考えながら、なんとなく米国公認会計士の勉強を始めようという気持ちになった。自分のゴールは、あくまでも経営者として兼ね備えてなくてはいけないレベルの会計知識を身に付けることであり、会計士資格は絶対的なゴールではなく、合格すればラッキーという気持ちで考えていた。司法試験の時のように資格取得ありきで勉強をするのはとても酷である。もうあんな思いをするのは嫌だった。ただ、司法試験の時と同じく金銭的援助は両親からであった。初回に予備校に支払う授業料などは80万円程であったが、両親は「次は会計士か(笑)!わかった!」と、すんなり承諾してくれた。(最近、父親に「うちの金融資産はどれくらいあるの?」という質問をしたところ、「何を言っているんだ!?冗談じゃないよ。全部息子の投資に使い切っちゃったよ!」と言われた。実際、僕が一人っ子ということもあり、両親は僕の教育、僕が興味のあることに対しては、惜しみなくお金をつぎ込んでくれた。)