2003~2007 台北

10. 予感

2004年夏、日系の人材紹介会社から台湾人総経理の特別助理(社長特別秘書)としての内定をもらったものの、経験をしたことがない業務が沢山あったことや、当時の年齢にしては割と高い給与だったこともあり、総経理の期待に背くわけにはいかないというプレッシャーがあった。

入社1か月後には東京での国際会議が予定されており、それまでに学ばなくてはいけないことが沢山あり、平日は仕事を家に持ち帰り夜中まで仕事をし、土日も会社に行き、社長からいろいろなことを学んだ。

東京出張も無事に終え、翌年(2005年)2月には上海出張が入った。初めて顔を合わせる上海子会社の新社長と二人で雑談をしている際、上海の社長から「アジア統括の社長特別秘書であれば、当然、財務諸表もしっかり見れるのだろうね?」と言われた。僕は会計の勉強などをしたこともなく、なんとなく財務諸表の意味を理解できるという程度であったが、この時、思わず「はい!」と答えてしまった。

台北に戻った後、上海の社長の一言が頭から離れなかった。僕の中では、①自分はサラリーマンタイプではないので、いずれ独立して自分で会社を作るだろう、②会社を経営するのであれば、財務諸表は読めないとまずい、③司法試験をあきらめ、弁護士の資格が取れなかったので、何か他の資格でもあった方が将来のためにも良い、④日本の公認会計士試験は難しそうだが、米国の公認会計士試験であれば、科目合格制(1科目ずつ受験をし、期限内に4科目合格すれば資格をとれる)なので、比較的取りやすいかもしれない。
そんなことを考えながら、なんとなく米国公認会計士の勉強を始めようという気持ちになった。


自分のゴールは、あくまでも経営者として兼ね備えてなくてはいけないレベルの会計知識を身に付けることであり、会計士資格は絶対的なゴールではなく、合格すればラッキーという気持ちで考えていた。
司法試験の時のように資格取得ありきで勉強をするのはとても酷である。もうあんな思いをするのは嫌だった。

ただ、司法試験の時と同じく金銭的援助は両親からであった。初回に予備校に支払う授業料などは80万円程であったが、両親は「次は会計士か(笑)!わかった!」と、すんなり承諾してくれた。
(最近、父親に「うちの金融資産はどれくらいあるの?」という質問をしたところ、「何を言っているんだ!?冗談じゃないよ。全部息子の投資に使い切っちゃったよ!」と言われた。実際、僕が一人っ子ということもあり、両親は僕の教育、僕が興味のあることに対しては、惜しみなくお金をつぎ込んでくれた。)


(この頃、受験勉強が始まるということもあり、気分を変えるために会社から比較的近い古亭エリアに引っ越しをした。屋上にプレハブを建てた違法建築の部屋だったが、ここからみる景色は絶景だった。
また、台湾トップレベルのビジネス誌「天下」 で、「アジア各国の若者の比較」という企画(各国から一名が代表者として選ばれ、各人が与えられたBlogのページ上で自分のこれまでの経験を語り、読者とやり取りをするという企画)があり、なぜか僕が日本代表として選ばれた。本来はこの「天下」のフロントページに顔写真が載るはずだったのだが、日本代表の僕だけ撮影が間に合わなく、載らなかった。><

米国公認会計士の教材を申し込んだ数週間後、自宅に数多くの教材(DVDと教科書)が届いた。

早速段ボールをあけて、「英文会計」という会計の基礎科目から始めたのだが、これまで全く会計の勉強をしたことがなかった僕にはちんぷんかんぷんだった。気合を入れるために引っ越してきた自宅でDVDを見ながら居眠りをしてしまうという、そんな状況で受験勉強が始まったが、自分なりにモチベーションを高め、工夫をしながら受験勉強に励んだ。
①海外での受験勉強ということもあり、周りに同じ目的を持つ仲間がいなかったものの、当時流行っていたMIXI(SNS)で同じ勉強をしている友達を作っては、情報交換をしながらモチベーションを維持した。②試験勉強をする中でわからないことも沢山あったが、インターネット上にあるいろいろな人の解説を読んで、 様々な角度から少しずつ理解する努力をした。それでも理解できない場合は、予備校の質問制度を利用して台湾から頻繁に質問メールを送り、疑問を解決した。③残業がほとんどなく、通勤時間も30分以内という当時の恵まれた環境を利用して、平日は19:00には帰宅、その後22時くらいまで勉強。この3時間で重要なポイントをMP3に録音して、22:30からジムに行き、そして目を瞑り、自転車をこぎながら、自分の声で録音した重要なポイントを聞きまくる。このやり方は机で勉強した知識を定着させることができ、とても良かったと思う。



(2005年の年末・80Kgに達した激太り時に東京出張で撮影した一枚とその後始めたダイエット記録。
大学生の頃の体脂肪率は8%、大学のキャンパスでは僕がサッカー選手の中田英寿に似てるという声が飛び交い(?)、フジテレビ「笑っていいとも」のそっくりさんのオーディションにまで行かされた。(笑)
小学生時代から、水泳・野球・バスケ・陸上をやっていたという、昔取った杵柄で大学時代までは良い体を維持していた。もともと太る体質ではなかったので、75Kgを超した時も、「どこまで太れるんだろう?」と好奇心も湧いてきて、ブレーキをかけず突っ走ったが、80Kg になった時点で、「これはまずい!」とジムに通いだし、毎晩体重を量り、食事の内容を記録するというダイエット記録を付け出した。あまり意味をなしてないが、
これはいまだに続いている。)


2006年に突入。
身近な場所で試験を受けられるのであれば、「とりあえず受けてみよう!」という気持ちになるのだが、本試験はアメリカまで行く必要があり、旅費と受験料で一度に30万以上かかることになり、なかなか試験を受ける気持ちにはなれなかった。「もっと勉強をしてから!」「もっと自信がついてから!」と思い、先送りにしていた。ただ、何事もそうだと思うが、「差し迫った目標を設定しない限り本気にはなれない!」ということで、思い切って、その年の夏の試験の申し込みをした。

(当時のカラフルなテキスト
勉強をしている気になれるため、僕は何色ものペンを使うのが好きだった。)


台北からアメリカ本土までは約14時間。試験前に飛行機の移動で疲れが出るのはまずいと思い、ビジネスクラスを使い、サンフランシスコまで行った(受験地は自由に選べる)。二日ほど時差調整をした後、今回の2科目のうちの1科目を受験、一日おいて、2科目目を受験。決していい出来ではなかったが、その後の4日間は10年ぶりのサンフランシスコを思い切り楽しんだ。


台湾に戻り、数週間後にインターネットで試験結果がでた。驚いたことに2科目とも合格していた。
この時、僕は「え?こんな簡単に受かってしまうのか?」「もし、残りの2科目も合格してしまったら、どうするのだろう?」「このまま台湾で働き続けるのがいいのか?日本に戻った方が良いのか?」、そんなことを考え始めた。


当時の台湾生活は自分にとっては最高であった。
日本では「サザエさん症候群」と言う言葉があり、日曜日の夜になると翌日からの仕事のことを考え気分がブルーになる人が多いが、当時の僕は、会社の同僚との関係もよく、日曜日の夜は、翌日同僚に会えることが楽しみで仕方なかった。そういう意味でも、当時の僕は仕事も私生活もともに充実した生活を送ることができていた。

試験の合格を一つの目標にしている以上、当然、試験に受かることは喜ばしいことなのだが、この夢のような台湾生活にピリオドを打たなくてはいけない日が刻一刻と近づいている気がしてならなかった。

そして、幸か不幸かその僕の予感は当たった。この一年後、僕はこよなく愛する台湾を去ることになる。
< 前の文 > 9. 緣
< 次の文 > 11. 虫の知らせ
< リストに戻る