2002~2003 カナダ

7. 将来の布石

カナダ生活の前半はあっという間に終了し、後半は帰国後のプランを再度練り直した。当初の予定では上海の復旦大学で1年間中国語を勉強しようと考えていたが、復旦大学は入学日のスケジュール等の問題があり、自分の理想の計画とは合わなかった。そこで、カナダで知り合った台湾人女性Sallyの勧めもあり、とりあえず台湾の中国文化大学に短期留学をすることに決めた。


年が明け2003年になりカナダ生活も残り3か月という時に、僕は将来の就職活動のことを考え始めた。就職の面接で「カナダで一年間英語を勉強しました!」と言ったところで、形にしない限り誰も認めてはくれない。カナダで1年間勉強しようが遊んで過ごそうが、つまるところ、それはTOEICの点数という形でしか結果を残すことはできない。

TOEICは慣れればスコアが上がるような試験なので、カナダに来た当初からコツコツ受けておくべきだったのだが、僕にはTOEIC受験に踏み切れないある理由があった。

それは、約2年前に受験した司法試験でのある出来事に起因する。
3時間半に及ぶ試験開始約1時間後、極度の緊張から体全身が冷えあがり、頭が真っ白になるというハプニングに遭遇した。どんなに緊張した試験でも、今までに経験したことのない状況だった。試験を放棄して退場することも考えたが、1年に1度の試験、試験を放棄すれば過去の1年間を無駄にするとともに、次の試験まで1年待たなくてはいけないことになる。何が何でも放棄するわけにはいかなかった。
何とかこの非常事態を乗り切ることはできたものの、この経験は僕の中で大きなトラウマとなり、試験に対する恐怖感を植え付ける結果となった。

TOEIC受験の数日前から不安が襲ってきたものの、当日は何とか落ち着いて受験をすることができ、そして数週間後に結果通知が自宅に届いた。

僕は封筒を破り、目を瞑りながら手のひらで通知表を覆い、点数の一の位から確認をしていった。まずは「0」、続いて「7」。この時点で、「まぁ、こんなもんだろう!」とある程度のスコアは想像できた。そして、百の位を確認したところ、その数字は自分が想像していた数字よりもはるかに高い数字であった。
点数を見た瞬間、興奮のあまり東京の両親に電話をしたことを今でも覚えている。

そしてこの時、試験に対する恐怖心を克服したとともに、僕は心の中で「自分ももう一度何かに挑戦できるのだ!」と強く感じたのである。


(当時住んでいたギリシャ人街にあるシェアハウス)


カナダ生活の最後の3か月間は、台湾人の語学交換パートナーを見つけて中国語の勉強も並行しておこない、4月からの台湾留学に備えた。


(帰国前には、初期にお世話になっていたホストファミリーに挨拶に行ったりと忙しく過ごした) 


2003年4月中旬、1年間のカナダ生活を終えて東京に戻ったその晩、家族三人で母の手料理をつまみ、お酒を飲みながら、いろいろな思い出話をした。両親はとても驚いていたが、その中で僕はこんな話をした。

「これまではお父さんとお母さんのために生きてきたけど、これからは自分のために生きていくよ」


僕が中学生の時、父方の祖母が亡くなった。親孝行ができなかったと後悔する父に、母は「お父さんは十分親孝行したじゃない!」と励ましていた。そんなやり取りを見て、子供ながらに、両親が健在の間に「親孝行」をするべきだと感じていた。

「親孝行」と一言で言っても、それは各人それぞれの定義があるはずだ。
僕の中での「親孝行」とは、「親が誇りに思えるような子供になること」だった。
「いい成績をとって、両親を喜ばせたい」

「有名大学に入って、両親を喜ばせたい」
「弁護士になって、両親を喜ばせたい」

ここでちょっと両親の事を話したい。

母親は2009年に癌で他界したが、美人で優しく、誰からも好かれる僕にとって自慢の母親だった。一方、父親はちょっと変わったところがあった。最初の子が男の子だったら子供は一人だけ、名前は「太郎」と、結婚する前から決めていたらしい。
幼少の頃から、父は僕にかなりのチャンスを与えてくれた。英会話、習字、エレクトーン、水泳等、習い事にもいろいろ通わせてくれたし、海外にも頻繁に行かせてもらった。それでいて、「勉強しろ!」などと言ったことは一度もなかった。

とにかく父は、子育てにユニークで強いポリシーを持っていた。


僕はそんな両親の愛を十分に与えられてきたことをよくわかっていたので、その期待に応えようと必死だった。そんな中で、なぜか変な意味で「親のために」生きるようになってしまったのかもしれない。


カナダに滞在中、「両親がいるから、こうしなくちゃ」などというような僕の発言が多かったようで、いろいろなカナダ人の友人から「太郎の人生は両親の人生じゃなくて、自分の人生だよ!」とよく言われた。

個人主義の欧米では普通のことであっても、家族主義のアジアではなかなかそのようには考えられないことがある。

ただ僕は、その1年前の病気の経験から、そして、カナダに滞在した1年間、異なる価値観を持つ人たちと過ごすことで、あることに気が付いた。
「両親は、自分が幸せであることを何よりも願っている。
自分が弁護士になっても自分が不幸であれば、両親は悲しむ。
自分が弁護士でなくても自分が幸せであれば、両親は喜んでくれる。
自分が自分のために自分の幸せを求めて生きることが、何よりの親孝行だ。」
僕は25歳にして、当たり前のことのようだが、自分がその後生きて行く上でとても大切なことを学んだのだ。

一年前、カナダへ出発する前に誓ったこと。

日本に帰国する時には、自分を苦しめた病気に感謝ができるようになっていよう...
この時点ではさすがに病気に感謝できる状態にまでは到達していなかったが、必死に乗り切った僕の一年間のカナダの生活に、何一つ後悔をすることはなかった。


そしてあれから10年経った今考えると、当時、自分が満足のいく、納得のいく一年間を送ることができたからこそ、人生の停滞期から無事に抜け出すことができ、その後の人生がうまく動き始めたのだと思う。

そして、ここからもう一つ学んだこと。

それは、一つ一つのステージを懸命に過ごしてさえいれば、そこにきっと明るい未来が待っているということ。