2019年

2019/6/1 父との関西旅行

四月初めに父と関西(平成最後の親孝行)旅行に行ってきました。

ここ数年、日本の満開の桜を見れていませんでした。
4月初めに数日の休みが取れそうな時期があり、桜の開花予報を調べてみたところ、関西の桜が見頃の時期でした。
ふと、父が数年前から「死ぬ前に神戸にいるみずほちゃんに会っておきたい」と言っているのを思い出し、これは一石二鳥だと、父に声をかけてみました。みずほちゃんは、親戚ではないものの、父の母方の関係で、100年近くに渡って付き合いがある家族の方で、年齢は父の一つ下、いとこのような関係だったようです。僕自身は、みずほちゃんの弟さんには何度かお会いしたことはあるのですが、みずほちゃんにはお会いしたことはありませんでした。「死ぬ前に会いたい」と言っていた割には、実際に「関西に行こう!」という提案をしても、父はなかなか重い腰を上げてくれず、僕がかなりプッシュして実現に至った感じでした。年をとると、気軽に旅行!と言う気持ちになれないようです。
 
4/6(土)の午後、父は羽田から神戸空港へ、僕は台北から関空へ飛び、夕方到着しました。
三宮で待ち合わせをし、親子二人の珍道中の始まりです。
父は昔から酒さえあれば、食べるものは何でもよいという食には全くこだわりのない人間でした。僕は父に似ず、美味しいものを探し求めるのが好きなので、旅行前から全日程のランチとディナーのお店をある程度決めていました。残り短い人生の父に美味しいものを食べさせてあげたいという思いで。(単に自分が食べたいのですが) 

ということで、今回の旅の目的は、①みずほちゃんとの再会、②満開の桜、③関西グルメの三つでした。
 
①みずほちゃんとの再会
二日目(4/7)の昼間にみずほちゃんの自宅近くにある六甲アイランドの某駅で待ち合わせをして、近くのホテルでランチをしました。約30年ぶりの再会に父、みずほちゃんご夫婦は昔話に花を咲かせていました。僕自身は知らないことばかりでしたが、祖母の話や父の兄弟の話など、面白い昔話を傍らで沢山聞くことができました。
「これまで約100年間に渡って関係が続いていたけど、太郎に子供もいないからこれで終わってしまうだろう(父の兄弟姉妹はみずほちゃんとは連絡を取っていないため)。
でも、〇〇君や〇〇ちゃん(みずほちゃんのお子さん)がそれぞれ子供を連れて台湾に行く機会等があれば、その際は、是非太郎を頼ってほしい」という話や、みずほちゃん家族に対する感謝を述べていました。
食事が終わった後、みずほちゃん宅に移動する際、みずほちゃんが「あなた(父)のお母さんのマルカン酢の工場がうちのすぐ裏にあるのよ」とマルカン酢の工場に連れて行ってくれました。
父方の祖母の本家はマルカン酢で、本家には跡取りがいなく、養子縁組をして云々という話は僕自身も以前聞いたことがあったのですが、ミツカン酢しか知らず、てっきりマルカン酢はもう存在していないものと思っていました。ホームページを見ると、代表取締役が祖母の旧姓の方だったり、360年の歴史というコーナーがあり、それを見ていると、「あ、おばあちゃんはこの時代に生きていたんだ!?」と感じたり、そこまで近い関係ではありませんが、まるでNHKのファミリーヒストリーを見ているような気分になりました。遅ればせながら数年前に歴史に興味を持ち始めて以来、自分のルーツというものに興味を持つようになりました。そのルーツも身近な父が生きているうちでないと聞くことができません。なので、こうしてできる限り、父との時間を作り、昔の話を聞いておきたいのです。

マルカン酢工場の満開の桜の下で
 
②満開の桜
今回の旅行期間中は天候にも恵まれ、初の姫路城、造幣局「桜の通り抜け」で満開の桜を見れたことは海外に住んでいる自分にとってはとても幸運なことでした。

 

③関西グルメ
結構時間をかけて調べた割に、今回感動したのは二日目の神戸牛、あとは思ったより普通で少し残念な結果に終わりました。それは、200Gで9,000円の神戸牛にはかないません。
 
旅行が終わって二か月経った後でも、「あの神戸牛はうまかったな!」と食にこだわりのない父が言うくらいなので、思い出に残る食事になってくれて、僕的には大満足です。
 
最終日、僕はホテルのある「なんば」からリムジンバスで関空に向かう時、父が見送ってくれました。
毎回「重いから、いいよ!」というのに、僕のスーツケースを持とうとする父。
一つのスーツケースを僕が持ち、先にエスカレーターに乗り、その後、もう一つのスーツケースを持つ父が乗ったのですが、スーツケースが二段にまたがってしまったようで、スーツケースが落ちそうになり、父もバランスを崩し、転げ落ちて大惨事になる手前でした。> <
父が持っていたスーツケースの中には、5キロの日本産のお米等も入っており、20キロ近くの重さだったと思います。
運が悪ければ、エスカレーターを転げ落ち、大惨事になっていてもおかしくないあの状況、「まだもう少し太郎の近くにいてあげて」と、母が守ってくれたのかもしれません。
そんなことを思いながら、帰国の途に就きました。

 
途中かなりの口喧嘩・口論もありましたが、父は既に「次は若い時に数ヶ月住んだことのある鳥取・広島近辺がいいな〜」等と言い始めています。笑