序章 ~2002 東京

3. 散らばったジグソーパズル

僕の当時の状況は、自分一人の力ではどうにもならない状況であった。
精神科に行く息子を持ってしまった両親を哀れに感じたが、自分が自殺するよりはましだと思い、思い切って両親に精神科に行きたいことを話した。

母親には腫瘍摘出のために入院していた病院の精神科に予約を取ってもらい、診察にも付き添ってもらった。

精神安定剤と睡眠薬を処方してもらい、薬に頼る生活が始まった。


当時、仲の良いいくつかのグループが快気祝いを企画してくれていた。
外に出ること、電車に乗ることすら恐怖心を持ってしまっていた自分は、できることなら参加したくはなかったが、そんなわけにはいかなく、家を出る前に精神安定剤を飲んで参加するほどであった。

今まで普通にできていたことができなくなってしまった。
まさに、生まれてからここまで築きあげてきたジグソーパズルが散らばって、振り出しに戻ってしまったような状態だった。

母は安定剤に頼っている自分を心配し、早くやめるように言った。
自分も長引いて、安定剤を常用するようにはなりたくなかったので、体の調子が少しずつ回復しだした10月中旬、自分を奮い立たせ精神安定剤の服用を減らし始め、司法試験の勉強を再開する決意をした。

その後、精神安定剤の服用もやめることができ、僕はこのまま少しずつ元の生活に戻っていくものだろうと思っていた。


しかし、一度散らばったジグソーパズルの修復は想像以上に大変な作業であった。

 

12月初旬、再び得体のしれない不安が襲ってきて、不安に押しつぶされそうになった自分は机の中にしまっておいた精神安定剤の残りを再び飲み始めてしまったのだ。

すでに自分の限界を超えていた。
正直、いい加減司法試験の勉強をやめて楽な生活を送りたかったが、これまでにかかった両親が自分のために投資をしてくれたお金、いろいろなことを犠牲にして費やした時間を考えると、司法試験をあきらめることなど恐ろしくてできなかった。

12月中旬、母のすぐ上の姉(道代ちゃん)が家に遊びに来て、夜3人で食事をした。

その際おばさんが、「太郎君は、大変な道を選んでしまったわね」と言った。
僕はその瞬間、母とおばさんの前で、「もう限界だ。これ以上はできない」と泣き崩れてしまった。

母は一緒に涙を流しながら、「そんなに苦しいなら、もうあきらめていいんだから...」と僕を慰めた。

本来、そんな姿は誰にも見せたくなかったが、これがきっかけとなり、僕は司法試験から身を引く決意ができたのだと思う。


次の日の夕方、母に前夜の話を聞いた父から渋谷の日本料理屋に呼び出された。

僕は父にこれ以上司法試験の勉強を続けることは不可能だということを伝えた。

父からは、「折角合格まであと一歩というところまで来ているのだから、もう一年頑張って欲しい」と言われたが、僕の状況を理解してくれた。

父は、僕が択一試験に初めて合格をした時(1999年)、こう言っていた。
「これで引き際が難しくなったな」と。
まさに、難しい引き際となった。

その日の父との話し合いで、年明けに就職活動を開始するということになった。
父からは「就職活動をする前に、刺激を受けるために、大好きなニューヨークに行ってきなさい!」と言われた。
当時は一人で海外に行ける状況ではなかったし、不安で仕方なかったが、その不安を克服するためにも行かなければいけないと思った。

 

この時、父のこの助言がその後の自分の人生を大きく変えることになるとは思ってもみなかった。