序章 ~2002 東京

2. 家族の存在意義

手術の1週間後、母とともに病理検査の結果を聞いた。
病名は「Desmoid」という非常に珍しい腫瘍で、癌とは異なり転移はしないが、同じ箇所に再発する可能性が比較的高い半良性・半悪性の腫瘍であった。

結果が出たその日の夕方、母は病院を去る際にエレベーターホールで僕の手をさすりながら、涙を流してこう言ったのを今でも覚えている。
「癌じゃなくてよかった。私があなたの病気を代わってあげたかったわよ。」
(その8年後、自分が入院していたその病院で、母が癌でこの世を去るということをあの時誰が想像しただろうか・・・)


数年後に思い出話として両親から聞いた話だが、当時、検査結果が出るまで、父は涙を流さなかったが、母は毎晩泣いていたようだ。

検査結果が出たその日の夜、父は初めて涙を流し、二人は抱き合って、息子の病気が癌ではなかったことを喜んだらしい。

癌ではなかったことを両親が喜んでいたその夜、摘出すればそれで問題ないと思い込んでいた僕は、手術の日を境に大きく変わってしまった自分の人生を嘆いていた。

「もう自分は昔の自分ではない。すべてが変わってしまった…

これからずっと再発に怯えて生きていくのか…どうしてこんなことになってしまったのだろう…」

駒沢の病室から見える自分が生まれ育った三軒茶屋にあるキャロットタワーの夜景を見ながら、自然と涙が流れてきた。


数日後の8月中旬、僕は退院をした。
退院をしたとは言っても、まだ傷口は完治しておらず、びっこを引きながら歩行をしていた。

今までのように友達と遊びに行くこともできなく、大学一年生の頃に両親が購入してくれた自宅近所のワンルームマンションで一人過ごす生活はとても孤独だった。
トイレで自分のまだ生々しい二本の傷口を見ては、自分の体がこれまでの体とは変わってしまった事を悲しく思った。
自分が健康だった頃に聞いていた音楽を聴いては、部屋で一人泣いていた。

司法試験の勉強を再開する気もなく、ただただ時間が流れて行った。

通院のために外出をすることはあったが、若くしてびっこを引いている自分は、周りから哀れみの目で見られていることを感じていた。
夜、友達と電話をすることが一日の唯一の楽しみであったが、ある時から、友達からも不憫に思われている事に気がつき、自分はいつからか人と接する事を拒み、極度の鬱状態に陥り始めていた。

その頃から、担当医から止められていた酒を昼間から飲みだし、煙草の本数も増え始めた。

自分の人生はまさにどん底だった。
司法試験の勉強を続ける自信も、そして、普通に生きていく自信すらなくなった。
そんな堕落した生活を送っているのであれば、死んでしまった方が楽だった。

 

まさに選択肢は二つ。

生きるか死ぬか。
死ぬことも大変。生きることも大変。

自殺も考えた。ただその度に、今まで自分を愛してここまで育ててくれた両親を思い出しては、自殺をとどまった。
あんなに素晴らしい両親を置いて、自分が先にこの世を去ることなどできないと思った。

当時、自分はこう思った。
「自分をあれだけ愛してくれる両親ですら自分を助けることはできない。結局、最後に自分を救えるのは自分だけだと」

8月最後の週末、両親がふさぎ込んでいる僕を心配して、気分転換のために旅行に連れてだしてくれた。

ほとんどの記憶はないが、一つだけ鮮明に覚えていることがある。

 

家族3人がそれぞれのベッドに入り、21時から放映された映画「タイタニック」を見ていた。
両親は映画の前半で既に眠りについてしまった。
映画終了間際の0時近く、CELINE DIONの「My Heart Will Go On」が流れてきた瞬間、僕の目に涙が溢れ、そして涙が止まらなかった。

泣いていることを気づかれないよう一生懸命息を殺した。

静かに眠っている両親を見つめながら、この時僕はもう一度彼らのために生きる決意をした。
 
今でも「My Heart Will Go On」の歌を耳にすると、あの時の映像が鮮明に浮かんでくる。